新年度予算編成で大幅な税収減を見込む愛知県の神田真秋知事は、4月から自らの毎月の給料を10%、期末手当を20%削減するなど特別職らの給与(毎月の給料+期末手当)削減案をまとめた。県が4日、県議会側に伝えた。財政難に伴う知事の給与削減は3年ぶり。これに合わせ、県議会側も議員報酬カットを進める見通しだ。
知事の給料月額は手当などを含め約154万円。ボーナスに当たる期末手当を含めると年収約2590万円となる。今回の案により、年収ベースで約358万円、13.8%減額となる。
ほかに、副知事は給料7%、期末手当10%▽教育長や企業庁長、病院事業庁長などは給料5%、期末手当7%が削減される。
県はすでに、一般職員や教職員、警察官などの給料を4%、期末手当を4%減額する案をまとめている。県は2月県議会にこれらを条例案にまとめて提案する予定。県議会の各会派も、自らの報酬の減額に前向きな意向を示している。
県は財政難を理由に、98~06年度にも知事給与の削減をした。最大時は給料10%、期末手当50%をカットした
景気悪化で自治体の税収が落ち込む中、首長や職員の人件費を削る動きが広がっている。愛知県は4日、神田真秋知事の給料を月額10%、期末・勤勉手当(ボーナス)を20%削減するなどの案を議会側に提示。先月再選された岐阜県の古田肇知事も3日付で、1期目の退職金(約4502万円)を1割カットする給与条例の改正を専決処分で実施した。
愛知県によると、財政難による知事の給与削減は3年ぶり。期間は4月から1年間で、年359万円になる。他の特別職も▽副知事が給料7%、ボーナス10%▽教育長、企業庁長、病院事業庁長、常勤監査委員が給料5%、ボーナス7%を削減する。これらを盛り込んだ給与特例条例案を2月議会に提出する。
同県は一般職の給料・ボーナスを4%、管理職は7%カットすることを決定済みで、議会も議員報酬の削減を検討する。
一方、岐阜県は来年度の職員給料を4~6%減額する方針を組合側に提示しており、知事は自らの退職金を減額することなどで理解を求める。県人事課によると、関連条例を改正し、約450万円少ない4052万円とするという。2月議会で承認を求める。
さらに県は知事を含む特別職の給料も引き下げる方針。03年度から知事は月6万円、副知事は同5万円カットしているが、これに代えて6%以上を減額する方向で調整
マーティン・ルーサー・キング牧師記念日
Fri 23 Jan’09
オバマ次期米大統領の就任式を翌日に控えた19日、首都ワシントンは、テロや暗殺の警戒のため、警察や軍など計4万人による空前の厳戒態勢に入った。
宣誓式が行われる連邦議会議事堂から、ホワイトハウスまでのパレードが行われるペンシルベニア通り周辺では、出入りを十数か所の検問所に限定。式典会場周辺の9平方キロは同日午後3時から交通規制された。通行人は金属探知器によるボディーチェックを受ける。5000台の監視カメラも稼働させた。
ワシントン中心部は、米国内外から集まった観光客らでごった返しており、街中の通りにはTシャツなど「オバマ記念グッズ」を売る店も立ち並んだ。
黒人の公民権運動指導者、マーチン・ルーサー・キング牧師の誕生記念の祝日だったこの日、バラク・オバマ氏(47)自身は、ホームレスの保護施設などを訪問。同牧師の偉業をたたえながら、ペンキ塗りのボランティア活動に上着を脱ぎ捨てて加わり、「誰もが行動すべき時だ」と訴えた。
イラク戦争の負傷兵らのため、毛布などを集めている高校でも、「私一人では何もできない。誰かが始めるのを待っていては何も始まらない」と述べ、深刻な経済危機などの難局を国民全体で乗り切っていく必要性を改めて強調した。
オバマ米次期大統領は、マーティン・ルーサー・キング牧師記念日の19日、「キング牧師は他の人への奉仕を愛する生涯を送った。その遺産に敬意を表し行動する日としよう」と国民に呼びかけ、自らボランティアに加わった。20日の就任式を前にワシントンでは厳戒態勢が続く一方、歓迎ムードも高まっている。
オバマ氏は、10代のホームレスのための避難所で、ペンキ塗りを担当。ミシェル夫人は米兵らへの慰問物資の荷造りを、バイデン次期副大統領は大工仕事に精を出した。呼びかけに答え、この日、全米1万3千カ所で市民もボランティアに加わった。
公民権運動を指導し、暗殺されたキング牧師は46年前、「私には夢がある」という有名な演説をワシントンのリンカーン記念堂で行った。20日の就任式が行われる連邦議会議事堂は、モール(緑地帯)のちょうど反対側にある。オバマ氏は「明日、私たちはひとつになって、キング牧師の夢が今もこだまするモールに集まる」と声明で告げた。
就任式見物のため、ワシントンには全米から市民が続々と集結。市中心部の9平方キロ以内は19日午後3時から一般車の立ち入りが禁止され、厳戒態勢が敷かれた。土産物店ではTシャツ、帽子など様々な「オバマ商品」が売られ、まるで人気映画スターのような扱いを受けている。
宣誓式が行われる連邦議会議事堂から、ホワイトハウスまでのパレードが行われるペンシルベニア通り周辺では、出入りを十数か所の検問所に限定。式典会場周辺の9平方キロは同日午後3時から交通規制された。通行人は金属探知器によるボディーチェックを受ける。5000台の監視カメラも稼働させた。
ワシントン中心部は、米国内外から集まった観光客らでごった返しており、街中の通りにはTシャツなど「オバマ記念グッズ」を売る店も立ち並んだ。
黒人の公民権運動指導者、マーチン・ルーサー・キング牧師の誕生記念の祝日だったこの日、バラク・オバマ氏(47)自身は、ホームレスの保護施設などを訪問。同牧師の偉業をたたえながら、ペンキ塗りのボランティア活動に上着を脱ぎ捨てて加わり、「誰もが行動すべき時だ」と訴えた。
イラク戦争の負傷兵らのため、毛布などを集めている高校でも、「私一人では何もできない。誰かが始めるのを待っていては何も始まらない」と述べ、深刻な経済危機などの難局を国民全体で乗り切っていく必要性を改めて強調した。
オバマ米次期大統領は、マーティン・ルーサー・キング牧師記念日の19日、「キング牧師は他の人への奉仕を愛する生涯を送った。その遺産に敬意を表し行動する日としよう」と国民に呼びかけ、自らボランティアに加わった。20日の就任式を前にワシントンでは厳戒態勢が続く一方、歓迎ムードも高まっている。
オバマ氏は、10代のホームレスのための避難所で、ペンキ塗りを担当。ミシェル夫人は米兵らへの慰問物資の荷造りを、バイデン次期副大統領は大工仕事に精を出した。呼びかけに答え、この日、全米1万3千カ所で市民もボランティアに加わった。
公民権運動を指導し、暗殺されたキング牧師は46年前、「私には夢がある」という有名な演説をワシントンのリンカーン記念堂で行った。20日の就任式が行われる連邦議会議事堂は、モール(緑地帯)のちょうど反対側にある。オバマ氏は「明日、私たちはひとつになって、キング牧師の夢が今もこだまするモールに集まる」と声明で告げた。
就任式見物のため、ワシントンには全米から市民が続々と集結。市中心部の9平方キロ以内は19日午後3時から一般車の立ち入りが禁止され、厳戒態勢が敷かれた。土産物店ではTシャツ、帽子など様々な「オバマ商品」が売られ、まるで人気映画スターのような扱いを受けている。
— posted by サイト管理者 at 05:22 pm
春闘を前に
Sat 10 Jan’09
日本経団連の御手洗冨士夫会長は6日、東京都内で開かれた経済3団体トップによる共同会見で、深刻化する雇用問題に関連して「ワークシェアリングみたいな考え方も一つの選択肢になる」と述べた。社員1人当たりの労働時間を短縮し雇用を確保するワークシェアリングは連合の高木剛会長も検討課題としており、09年春闘でテーマの一つになる可能性も出てきた。
御手洗会長は「介護など人手不足の分野があり、新しい雇用を増大させていきたい」と指摘。政府と協力して新規雇用の創出に努力する考えを明らかにした。
従業員が仕事を分け合うワークシェアリングが、雇用対策の焦点に浮上してきた。日本経団連の御手洗冨士夫会長は8日の「労使フォーラム」で雇用確保策の一つとして言及。連合の高木剛会長も5日の記者会見で触れた。だが、ワークシェアリングの前提として賃金引き下げを念頭におく経営側と、雇用創出を重視する労働側の隔たりは大きい。「同床異夢」の中、議論はどこまで深まるか。
■経営側は賃金下げ念頭、労働側は雇用創出重視
春闘を前に、労使450人が参加して労働条件などを議論した「労使フォーラム」。御手洗氏は基調講演の中で「緊急的に時間外労働や所定労働時間を短くして、雇用を守ることを検討する企業が出てくるかもしれない」と述べた。6日の記者会見に続き、ワークシェアリングが雇用対策の選択肢の一つであるとの考えを改めて示したものだ。
高木氏も5日の年頭会見で「雇用に関しては、テーマの一つとしてワークシェアリングの話も出てくる」と述べており、ワークシェアリングが雇用対策を巡る労使双方のキーワードになってきた。
とはいえ、同じ言葉を使いながらも、労使の考え方は大きく違う。
御手洗氏の発言は、労働者の賃金引き下げを念頭においたもの。不況期における緊急の失業対策として、「労働者の賃金は下がるが、雇用は確保する」という考え方だ。ワークシェアリングの対象も個別企業の正社員を念頭においているとみられる。
一方、連合が想定しているのは、パートや派遣社員など非正社員も含め、産業全体で仕事を分け合う姿だ。賃金引き下げを視野に入れる経営側の前提についても、今春闘でベースアップ要求を掲げる連合としては応じられない。
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御手洗会長は「介護など人手不足の分野があり、新しい雇用を増大させていきたい」と指摘。政府と協力して新規雇用の創出に努力する考えを明らかにした。
従業員が仕事を分け合うワークシェアリングが、雇用対策の焦点に浮上してきた。日本経団連の御手洗冨士夫会長は8日の「労使フォーラム」で雇用確保策の一つとして言及。連合の高木剛会長も5日の記者会見で触れた。だが、ワークシェアリングの前提として賃金引き下げを念頭におく経営側と、雇用創出を重視する労働側の隔たりは大きい。「同床異夢」の中、議論はどこまで深まるか。
■経営側は賃金下げ念頭、労働側は雇用創出重視
春闘を前に、労使450人が参加して労働条件などを議論した「労使フォーラム」。御手洗氏は基調講演の中で「緊急的に時間外労働や所定労働時間を短くして、雇用を守ることを検討する企業が出てくるかもしれない」と述べた。6日の記者会見に続き、ワークシェアリングが雇用対策の選択肢の一つであるとの考えを改めて示したものだ。
高木氏も5日の年頭会見で「雇用に関しては、テーマの一つとしてワークシェアリングの話も出てくる」と述べており、ワークシェアリングが雇用対策を巡る労使双方のキーワードになってきた。
とはいえ、同じ言葉を使いながらも、労使の考え方は大きく違う。
御手洗氏の発言は、労働者の賃金引き下げを念頭においたもの。不況期における緊急の失業対策として、「労働者の賃金は下がるが、雇用は確保する」という考え方だ。ワークシェアリングの対象も個別企業の正社員を念頭においているとみられる。
一方、連合が想定しているのは、パートや派遣社員など非正社員も含め、産業全体で仕事を分け合う姿だ。賃金引き下げを視野に入れる経営側の前提についても、今春闘でベースアップ要求を掲げる連合としては応じられない。
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— posted by サイト管理者 at 03:43 pm
兵力で圧倒的に優位であるにも関わらず
Mon 29 Dec’08
天正11年(1583年)1月、反秀吉派の一人であった滝川一益は、秀吉方の伊勢峰城を守る岡本良勝、関城や伊勢亀山城を守る関盛信らを破った。これに対して秀吉は2月10日に北伊勢に侵攻する。2月12日には一益の居城・桑名城を攻撃したが、桑名城の堅固さと一益の抵抗にあって、三里も後退を余儀なくされた。また、秀吉が編成した別働隊が長島城や中井城に向かったが、こちらも滝川勢の抵抗にあって敗退した。しかし伊勢亀山城は、蒲生氏郷や細川忠興、山内一豊らの攻撃で遂に力尽き、3月3日に降伏した。とはいえ、伊勢戦線では反秀吉方が寡兵であるにも関わらず、優勢であった。
2月28日、勝家は前田利長を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍を率いて出陣した。これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江に戻り、3月11日には柴田勢と対峙した。この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が勝家方に寝返るという事件が起こった。さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めるなど、はじめは勝家方が優勢であった。
4月20日早朝、勝家の重臣・佐久間盛政は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃に赴いた隙を突いて、奇襲を実行した。この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走した。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた秀吉の反撃にあい、さらに前田利家らの裏切りもあって柴田軍は大敗を喫し、柴田勝家は越前に撤退した(賤ヶ岳の戦い)。
4月24日、勝家は正室・お市の方と共に自害した。秀吉はさらに加賀国と能登国も平定し、それを前田利家に与えた。5月2日(異説あり)には、信長の三男・織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。こうして、反秀吉陣営を滅ぼした秀吉は、信長の後継者としての地位を確立したのである。
[編集] 徳川家康との対立
詳細は小牧・長久手の戦いを参照
天正12年(1584年)、信長の次男・織田信雄は、秀吉に年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発し、対立するようになる。そして3月6日、信雄は秀吉に内通したとして、秀吉との戦いを懸命に諫めていた重臣の浅井長時・岡田重孝・津川義冬らを謀殺し、秀吉に事実上の宣戦布告をした。このとき、信長の盟友であった徳川家康が信雄に加担し、さらに家康に通じて長宗我部元親や紀伊雑賀党らも反秀吉として決起した。
これに対して秀吉は、調略をもって関盛信(万鉄)、九鬼嘉隆、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけた。さらに去就を注目されていた美濃の池田恒興(勝入斎)をも、尾張と三河を恩賞にして味方につけた。そして3月13日、恒興は尾張犬山城を守る信雄方の武将・中山雄忠を攻略した。また、伊勢においても峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが落とすなど、緒戦は秀吉方が優勢であった。
しかし家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出た。羽黒に布陣していた森長可を破ったのである(羽黒の戦い)。さらに小牧に堅陣を敷き、秀吉と対峙した。秀吉は雑賀党に備えてはじめは大坂から動かなかったが、3月21日に大坂から出陣し、3月27日には犬山城に入った。秀吉軍も堅固な陣地を構築し両軍は長期間対峙し合うこととなり戦線は膠着した(小牧の戦い)。このとき、羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であったとされる。
そのような中、前の敗戦で雪辱に燃える森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である三好秀次(豊臣秀次)を総大将に擁して4月6日、三河奇襲作戦を開始した。しかし、奇襲部隊であるにも関わらず、行軍は鈍足だったために家康の張った情報網に引っかかり、4月9日には徳川軍の追尾を受けて逆に奇襲され、池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦死してしまった(長久手の戦い)。
こうして秀吉は兵力で圧倒的に優位であるにも関わらず、相次ぐ戦況悪化で自ら攻略に乗り出すことを余儀なくされた。秀吉は加賀井重望が守る加賀井城など、信雄方の美濃における諸城を次々と攻略していき、信雄・家康を尾張に封じ込めようと画策してゆく。また、信雄も家康も秀吉の財力・兵力に圧倒されていたことは事実で、11月11日、信雄は家康に無断で秀吉と単独講和した。また、家康も信雄が講和したことで秀吉と戦うための大義名分が無くなり、三河に撤退することとなった。家康は次男・於義丸を秀吉の養子(=人質)として差し出し、「羽柴秀康(のちの結城秀康)」とし講和した。戦後、秀吉は権大納言に任官されている。
その後、秀吉は天正14年(1586年)には妹・朝日姫を家康の正室として、さらに母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促す。家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った。
[編集] 豊臣政権と紀伊・四国・越中攻略
天正11年(1583年)、石山本願寺の跡地に大坂城を築く。豊後国の大名・大友宗麟は、この城のあまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えた。しかし城の一部に防御上の問題が有り、秀吉自身もそこを気にしていたと言われている(のちの大坂の役で真田信繁(幸村)は、防御の弱さを指摘されていた箇所に真田丸と呼ばれる砦を築き、大坂城の防御を大幅に強化し、徳川勢を大いに苦しめた)。
天正12年(1584年)には朝廷より将軍任官を勧められたが断ったとする説がある[8]。
天正13年(1585年)3月10日、秀吉は正二位・内大臣に叙位・任官された。そして3月21日には紀伊に侵攻して雑賀党を各地で破る。最終的には藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させることで平定した(紀州征伐)。
確認できております。
2月28日、勝家は前田利長を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍を率いて出陣した。これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江に戻り、3月11日には柴田勢と対峙した。この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が勝家方に寝返るという事件が起こった。さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めるなど、はじめは勝家方が優勢であった。
4月20日早朝、勝家の重臣・佐久間盛政は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃に赴いた隙を突いて、奇襲を実行した。この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走した。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた秀吉の反撃にあい、さらに前田利家らの裏切りもあって柴田軍は大敗を喫し、柴田勝家は越前に撤退した(賤ヶ岳の戦い)。
4月24日、勝家は正室・お市の方と共に自害した。秀吉はさらに加賀国と能登国も平定し、それを前田利家に与えた。5月2日(異説あり)には、信長の三男・織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。こうして、反秀吉陣営を滅ぼした秀吉は、信長の後継者としての地位を確立したのである。
[編集] 徳川家康との対立
詳細は小牧・長久手の戦いを参照
天正12年(1584年)、信長の次男・織田信雄は、秀吉に年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発し、対立するようになる。そして3月6日、信雄は秀吉に内通したとして、秀吉との戦いを懸命に諫めていた重臣の浅井長時・岡田重孝・津川義冬らを謀殺し、秀吉に事実上の宣戦布告をした。このとき、信長の盟友であった徳川家康が信雄に加担し、さらに家康に通じて長宗我部元親や紀伊雑賀党らも反秀吉として決起した。
これに対して秀吉は、調略をもって関盛信(万鉄)、九鬼嘉隆、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけた。さらに去就を注目されていた美濃の池田恒興(勝入斎)をも、尾張と三河を恩賞にして味方につけた。そして3月13日、恒興は尾張犬山城を守る信雄方の武将・中山雄忠を攻略した。また、伊勢においても峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが落とすなど、緒戦は秀吉方が優勢であった。
しかし家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出た。羽黒に布陣していた森長可を破ったのである(羽黒の戦い)。さらに小牧に堅陣を敷き、秀吉と対峙した。秀吉は雑賀党に備えてはじめは大坂から動かなかったが、3月21日に大坂から出陣し、3月27日には犬山城に入った。秀吉軍も堅固な陣地を構築し両軍は長期間対峙し合うこととなり戦線は膠着した(小牧の戦い)。このとき、羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であったとされる。
そのような中、前の敗戦で雪辱に燃える森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である三好秀次(豊臣秀次)を総大将に擁して4月6日、三河奇襲作戦を開始した。しかし、奇襲部隊であるにも関わらず、行軍は鈍足だったために家康の張った情報網に引っかかり、4月9日には徳川軍の追尾を受けて逆に奇襲され、池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦死してしまった(長久手の戦い)。
こうして秀吉は兵力で圧倒的に優位であるにも関わらず、相次ぐ戦況悪化で自ら攻略に乗り出すことを余儀なくされた。秀吉は加賀井重望が守る加賀井城など、信雄方の美濃における諸城を次々と攻略していき、信雄・家康を尾張に封じ込めようと画策してゆく。また、信雄も家康も秀吉の財力・兵力に圧倒されていたことは事実で、11月11日、信雄は家康に無断で秀吉と単独講和した。また、家康も信雄が講和したことで秀吉と戦うための大義名分が無くなり、三河に撤退することとなった。家康は次男・於義丸を秀吉の養子(=人質)として差し出し、「羽柴秀康(のちの結城秀康)」とし講和した。戦後、秀吉は権大納言に任官されている。
その後、秀吉は天正14年(1586年)には妹・朝日姫を家康の正室として、さらに母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促す。家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った。
[編集] 豊臣政権と紀伊・四国・越中攻略
天正11年(1583年)、石山本願寺の跡地に大坂城を築く。豊後国の大名・大友宗麟は、この城のあまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えた。しかし城の一部に防御上の問題が有り、秀吉自身もそこを気にしていたと言われている(のちの大坂の役で真田信繁(幸村)は、防御の弱さを指摘されていた箇所に真田丸と呼ばれる砦を築き、大坂城の防御を大幅に強化し、徳川勢を大いに苦しめた)。
天正12年(1584年)には朝廷より将軍任官を勧められたが断ったとする説がある[8]。
天正13年(1585年)3月10日、秀吉は正二位・内大臣に叙位・任官された。そして3月21日には紀伊に侵攻して雑賀党を各地で破る。最終的には藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させることで平定した(紀州征伐)。
確認できております。
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国定公園が都道府県に管理を委託
Sat 13 Dec’08
国立公園(こくりつこうえん)とは、国が指定し、その保護・管理を行う自然公園である。日本においては狭義には、自然公園法に基づき、日本を代表する自然の風景地を保護し利用の促進を図る目的で、環境大臣が指定する自然公園のひとつ。国定公園が都道府県に管理を委託されるのに対し、国立公園は国(環境省)自らが管理する。日本の国立公園の面積の約60%が国有地である[1]。
目次 [非表示]
1 国立公園の歴史
2 最近の日本の国立公園の動向
3 日本の国立公園の区分
4 日本の国立公園一覧
4.1 現存する国立公園
4.2 日本統治時代の台湾にかつて存在した国立公園
5 国立公園の利用
6 国立公園と観光
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
[編集] 国立公園の歴史
世界最初の国立公園は、1872年に第18代アメリカ合衆国大統領・ユリシーズ・S・グラントによって指定されたイエローストーン国立公園である。日本では1931年に自然公園法の前身である国立公園法が施行され、1934年3月16日に瀬戸内海国立公園、雲仙国立公園、霧島国立公園の3か所が最初の指定を受けた。また戦前の台湾と朝鮮でも国立公園指定の動きがあり、実際、1937年12月27日に台湾の大屯山、新高阿里山、次高タロコの3箇所が日本の国立公園に設定された経緯がある。2007年8月末までに32箇所の国立公園が指定されてきたが、前記の台湾の3箇所の国立公園が日本の統治権放棄により消滅したために、現在は29箇所の国立公園が存在している。
[編集] 最近の日本の国立公園の動向
2007年8月1日、西表国立公園の区域を拡大し沖縄県石垣島の一部を編入し、同国立公園の名称を西表石垣国立公園に変更した。これは、1964年の富士箱根伊豆国立公園以来43年ぶりの大規模な拡張である。この拡張により、新空港問題などで有名となった白保地区等が海中公園地区に指定され、同国立公園の海中公園の面積は日本の国立公園中で最大となった。
また、同年8月30日に日光国立公園から尾瀬地域を分離し、周囲を新たに編入する形で尾瀬国立公園が新設された。これは釧路湿原国立公園以来20年ぶりの国立公園の新設である。
了解しました。
目次 [非表示]
1 国立公園の歴史
2 最近の日本の国立公園の動向
3 日本の国立公園の区分
4 日本の国立公園一覧
4.1 現存する国立公園
4.2 日本統治時代の台湾にかつて存在した国立公園
5 国立公園の利用
6 国立公園と観光
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
[編集] 国立公園の歴史
世界最初の国立公園は、1872年に第18代アメリカ合衆国大統領・ユリシーズ・S・グラントによって指定されたイエローストーン国立公園である。日本では1931年に自然公園法の前身である国立公園法が施行され、1934年3月16日に瀬戸内海国立公園、雲仙国立公園、霧島国立公園の3か所が最初の指定を受けた。また戦前の台湾と朝鮮でも国立公園指定の動きがあり、実際、1937年12月27日に台湾の大屯山、新高阿里山、次高タロコの3箇所が日本の国立公園に設定された経緯がある。2007年8月末までに32箇所の国立公園が指定されてきたが、前記の台湾の3箇所の国立公園が日本の統治権放棄により消滅したために、現在は29箇所の国立公園が存在している。
[編集] 最近の日本の国立公園の動向
2007年8月1日、西表国立公園の区域を拡大し沖縄県石垣島の一部を編入し、同国立公園の名称を西表石垣国立公園に変更した。これは、1964年の富士箱根伊豆国立公園以来43年ぶりの大規模な拡張である。この拡張により、新空港問題などで有名となった白保地区等が海中公園地区に指定され、同国立公園の海中公園の面積は日本の国立公園中で最大となった。
また、同年8月30日に日光国立公園から尾瀬地域を分離し、周囲を新たに編入する形で尾瀬国立公園が新設された。これは釧路湿原国立公園以来20年ぶりの国立公園の新設である。
了解しました。
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